雪の日舎
旅する干し芋

第3話 出稼ぎに行ってきました 〜「会いたい」気持ちが、かぞくをつくる〜

2019.01.21

なんとか今年の芋を、加工せねば

「今年、加工所を建てることは断念しました。」

 

 

いつか作りたいと思っていた夢の加工所。

 

2013年から始めた干し芋事業が、少しずつ生産者やお客様も増えてくださり、伸びてきたこと、かねてから雪国の課題である冬のしごとづくりに踏み出す時期がきたこと、委託加工のキャパがMAXとなってしまったこと、作業場を持たないなかで規模が大きくなってきた農業に限界がきたこと…いろんな要因が重なり、自社加工を考えていたころ、

何年か越しに、やっと念願の土地のご縁も巡ってきました。

この8年、ずっとずっと、自分の拠点がほしいと思いながら農業を続けていたので、涙が出るほど、嬉しかったです。

 

地域の方が給水排水の段取りをしてくださり、設計、お金の手続きなど整い、とうとう具体的な形になる!というときでした。

加工所建設に対して反対の意見がおこり、何度も何度も社内で検討した結果、生産者の方、建設予定地の集落の方に、断念の旨をご報告したのが9月の終わりでした。

(詳しくはこちら)

 

とは言え、作付けしてくださった生産者のみなさまの芋を無駄にせぬよう、待ってくださっているお客様のためにも、なんとか今年の分は干し芋としてお届けせねばならない。

 

いろんな方に相談し、走り回った結果、

11月と1月に一週間ずつ
「茨城への出稼ぎ加工」という形でなんとか今年のぶんを加工できる道筋ができました。

 

 

 

背水の陣。家族の理解を得て、出発へ

当時は、スノデ最大の危機、という気持ちでした。

加工所できる前提で、自分たちも農家さんたちも作付け量を増やしたのに、この大量のお芋たち、どこで加工するの・・・?

生産者、お客様、関わってくれた人のために「なにがなんでも、やらねばならない」背水の陣状態。

今年の芋をなんとか加工できるのならば、どんな状況でも条件でも、もはや突き進むべし、「どげんかせんといかん」東国原マインド、いや戦国武将マインドです。

私の不甲斐なさで、出稼ぎ加工に一緒に行くことになった水沼や川延に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。だからこそ、「私が、やらねばならない」、今回一緒に私たちの芋を加工してくださる「日本農業実践学園」の学生さんや先生にも、態度でしっかり感謝の気持ちを伝えねばならない。

 

 

なんだかもう、いろんな気持ちが混ざり、常にバクバクと動悸しているような感覚でした。

 

 

そんな私には3歳の娘と夫、そして同居しているお義父さん、お義母さんがいます。


二世帯住宅ではなく、完全同居で、いつも生活面で助けていただいています。
そんな私が「出稼ぎ」です。

 

「すいません、1週間、茨城に干し芋作りに行くんです、すいません、本当に申し訳ないんですが、1週間、なんとかお願いしたくて・・・・」

 

「あさちゃん、どーすらんだ」

 

 

「夫がいます、大丈夫です」

 

「おめさん、妊娠してるけど(当時妊娠2ヶ月で絶賛つわり中でした)」

 

「気合いで行きます、大丈夫です」

 

 

「・・・・。」

 

「・・・・。」

 

 

なかば、押し切ったかんじで、旅立ちました。

 

夜はいつも、いろんな会議で家にいないことが多い夫にも、この1週間だけはなんとか家にいてもらうようにお願いしました。

 

 

とは言え、娘と離れるのは寂しい!!!

 

でも私が明るく、しっかりしてないと、ただでさえ不安になってるチームに悪影響しちゃう・・・
とはいえ、つわりがきつい・・・うっ(吐)

 

不甲斐ないリーダーです。皆さん、こんなリーダーになってはいけません。
それでも時は進みます。

 

干し芋用の芋たちを、体調絶不調のなか、レンタカーの2トン車2台を自分たちで運転し、先に加工先の茨城へ日帰り(!)で運び、先方のコンテナに移し替え(!)、ギリギリまですったもんだありましたが、着々と準備が進みました。

 

 

出発前夜、

「あさちゃん、お母さんね、明日から1週間ずうっといないんだ。干し芋つくりにいくんだけど、じじと、ばばと、おとうさんと、大丈夫かな?(涙)」

 

「あさちゃん、大丈夫!さみしくない!」

「そ、そうか…お母さん、さみしい。あさちゃんもさみしいでしょ?」

 

「あさちゃん大丈夫!さみしくない!」

 

 

・・・・。一抹の不安を抱えながら、当日を迎えました。

 

 

 

 

 

「チームが崩れると、干し芋は作れません」

 

11月26日、早朝に十日町を出発し、昼すぎには学園に到着。
日本農業実践学園では、自分たちでも芋を栽培し、干し芋加工をし、販売しています。

その量はなんと40トン。

 

ちなみに私たちの今年の加工量は4.6トンです。

 

彼らの日々の、怒涛の干し芋作業のなかに、私たちの芋の加工日を混ぜていただく形で今回、実現しました。

2013年から今までは、私たちの芋の量がまだ少なかったため、学園に芋だけを送って加工していただいていました。しかし毎年倍増し、受け入れ量の限界値を超えたところで、「人間も来てくれれば」という話が挙がり、今回の出稼ぎ加工の実現となりました。

 

そのため、この出稼ぎでは、私のなかでテーマがありました。
それは「感謝と、声かけ」でした。

 

出稼ぎに来る前から、何度も何度も、学園の先生である籾山さんから
「干し芋作業はチームワークです。チームが崩れると、干し芋は作れません」と口すっぱく言われていました。

 

 

なににおいても、ネガティブな感情や気持ちはすぐまわりに伝染します。
ただでさえ、加工所建設断念、出稼ぎという形での変更で、「がんばろう!」と気持ちを鼓舞していても、無意識のところで気持ちが沈んでいるオーラを発しているかもしれません…。

 

▲いつも笑顔の籾山さん

 

だからこそ、一緒に行くメンバーもそうですし、一緒に私たちの芋の作業する学生の皆さん、先生、地域のパートの方に「新潟の子たちと一緒に作業して楽しかった」と思ってもらえるように。

そして今まで彼らにとって、顔もわからない私たちの芋を加工してもらっていたからこそ、「この人たちの芋を加工してよかった」と思ってもらえるように。

 

ちょっとした「ありがとう」や、「声かけ」を大事にしようと思いました。

 

 

もうひとつの家族をつくる「にこにこ」

 

加工所では作業の合間の、10時と15時にはお茶休憩があります。

 

加工人数が多いので、みんなでずらっと椅子を並べると壮観です。
学生さん、先生だけでなく、地域のパートの方、海外の方も一緒で、たのしい時間でもありました。

 

加工リーダー(学園の先生である籾山さんや宮本さん)は、いろんな人に丁寧に話題を振りながら、みんなにとってたのしい時間をつくる。

それも場づくりをするリーダーの役割でもありました。

 

そしてみんな、そんな場や、籾山さん宮本さんのことが大好きなことが、パートさんたちの雰囲気からも分かりました。

 

「干し芋をあのイベントで売ろう!」「丸干しはこうしたらいいんじゃないか」など、
休憩時間には売り方も熱心に提案されていて、単に「労働者として働いている」だけでなく、「自分ごと」としてもっと力になりたい!!!という気持ちが伝わり、感動しました…。

 

冒頭に籾山さんに言われた「チームワークが大事」という言葉は、
単にひとを大事にする、そのひとに適した役割を持たせる、作業を補い合う、という人間関係や仕組み、給料の問題だけでない。

 

「このひとの力になりたい!」と思わせる背中となることや、
「この場にいたい!会いたい!」と思ってもらえることも大事だと気づきました。

 

 

2011年、籾山さんから引き継いで、分校に住んだときに

「地域を支えるには、たくさんの人の力が必要。籾山さんが分校に住んでいたときみたいに、『籾山さんに会いたい』と都会から人がたくさん来てくれていたように、私もそう思ってもらえる人になりたい」

と思っていたことを思い出しました。

 

 

それはやっぱり、

明るく、楽しく、元気よく。

 

農業の師匠・橋場さんが
「じろばた(薪ストーブのまわり)には、自然と人が集まるから、家にじろを残してるんだ」と言っていました。みんな、あたたかい場所、あたたかい人のそばにいたい。
だから、一人がにこにこだと、みんながにこにこでした。

 

まさに、2016年の箱根駅伝で二連覇した青山学院大学が行った「ハッピー大作戦」!

原監督が打ち出したハッピー大作戦とは「とにかく前向きに楽しみながら走ることを目指す」作戦です。

 

1998年から幸福学で笑顔の研究はされているようで、どんなに辛くても、笑顔でいると、脳内のホルモンバランスが変わって、実力発揮につながる思考回路になること、そして、笑顔はまわりに伝染して好循環が生まれるとのこと。

笑えなくても笑顔をつくることで、脳が勘違いをして、幸福を感じるようです。(さらには、上を向いて大股で歩くといいらしい)

 

確かに、会話の反応が薄かったり、無表情の人とは一緒にいたい、話したい、働きたいとは思いません。

 

 

チームワークとは、すごくシンプルなのかもしれない。
「ごきげん」から始まる、もうひとつの家族をつくるのが、場の役目でもありました。

 

それ以来、どの場に行っても、自分がリーダーでなくても、にこにこの始発駅になりたいと、思うようになりました。

 

 

いっときでも、この干し芋加工チームの家族に加われたことは、私たちにとってしあわせなことでした。

 

 

もうひとりの家族がやってきた

 

さて、干し芋加工も中盤のころ、もうひとりの家族がやってきました。

 

濱坂さんです!

 

 

濱坂さんは、池谷集落で中越地震の復興ボランティアが始まった頃から、国際NGO JENの職員としてずっと通ってくださっていた方。私が移住してからも、定期的に仲間とともに訪れてくださっていました。

 

私が学生の頃、難民支援を勉強していたときから知っており、
池谷に通うきっかけになったのも、濱坂さんを通じてJENのニュースレターをいただいていたからです。

 

 

池谷分校でした私たちの結婚式でも支えてくださり、私の池谷生活にはなくてはならない大切な人たちです。濱坂さんと、そして一緒に来てくださるたくさんの仲間たちの明るいエネルギーにいつも助けられていました。

 

▲妊娠したときも、農作業を助けてくれました。

 

 

そんな濱坂さんが、東京から茨城まで3日間、干し芋加工の助っ人にきてくださいました(涙)

 

事業が頓挫し、これからどうしていこうと悩んでいた時期だったので、
これほど心強いものはなく、
精神的に、大変楽になりました。

 

「ひとりじゃないんだ」と思えたことが、なによりの心の栄養になり、
私には、遠くにたくさんの大好きな家族たちがいることに気づきました。

 

 

そして、十日町の家族

濃厚な1週間です。

 

恥ずかしいことに、自分や周りのことでいっぱいいっぱいで、連絡を取ることすらできませんでしたが、半分を過ぎたころから、気持ちにも余裕が出てきました。

 

文明の利器を使って、娘とLINEの無料電話。

うむ、元気そうです。

 

 

1週間の出稼ぎ加工を終え、とうとう十日町に帰宅の日がやってきました。

どきどきしながら家に帰ると

 

「おかあさーーん!!!待ってたよお〜〜〜〜!!!会いたかったよ〜〜!!」と抱きつく娘。

 

私うるうる。

 

夫によると、毎晩ミッフィーとヤギのメェちゃんを抱きしめて寝ていたこと

 

お父さんじゃなくて、じじとお風呂に入って寝たいとだだをこねたこと

 

お母さんがいないと言っていたこと

 

本当に強く、がんばってくれました。

 

「お母さんもがんばってきたよ〜」ぎゅうう。

 

 

その後、一刻も早く干し芋を持って生産者のみなさまのところへ行きたい!と、

できたてほやほやの干し芋を持って、
無事に1回目の加工を終え、なんとか干し芋の形になったことをご報告にまわりました。

 

「おう、ようがんばってきたな。いい干し芋ができたじゃないか」を声をかけていただき、ぐっとこみあげるものがありました。

 

 

私が会いたいと思っていた人は、家族だけでなく、生産者のみなさまも同じでした。一緒に芋づくりをしている地域のひとたちも、私たちにとっての家族です。

 

 

学園の加工所でも、

助けに来てくれる県外の方たちも、

そして、生産者さんも、本当の家族も、

 

 

「この人に会いたい」という気持ちが、家族にさせる。

 

 

干し芋づくりを通じて、「家族」に会う旅をさせていただいた一週間でした。

 

 

 

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佐藤 可奈子

佐藤 可奈子

株式会社雪の日舎 代表。1987年、香川県高松市生まれ。立教大学法学部政治学科卒。大学卒業後、新潟県十日町市に移住、就農。「里山農業からこころ動く世界を」がテーマ。著書「きぼうしゅうらく〜 移住女子と里山ぐらし」